主|私は、愛玩の主である

私は、愛玩の主である。

そう名乗るようになってから、もう長い年月が流れた。

けれど、私も最初から「主」だったわけではない。

誰かを支配するとは、どういうことなのか。
誰かが自分に身も心も委ねるということを、どう受け止めればいいのか。

あの頃の私は、まだその重さを知らなかった。

ただ優しく愛し合うだけの関係では、どこか満たされないものがあった。

相手を深く知りたい。
欲望も、弱さも、隠している本性も知りたい。

そして、それらすべてを受け止めたうえで、導きたい。

そんな感覚が、私の中には昔からあった。

それは、誰かを傷つけたいという欲望ではない。

自分にすべてを預けてくれる相手を、
誰よりも深く知り、誰よりも大切に扱いたい。

今振り返れば、そこに「主」としての私の原点があったのだと思う。

そして、愛玩と出逢った。

彼女との時間を重ねる中で、
それまで輪郭のなかった私の欲望は、少しずつ形になっていった。

彼女は私の「愛玩」となり、
私は彼女の「主」となった。

主として生きる

私にとって「主」であることは、命令することでも、上に立つことでもない。

愛玩が預けてくれるものを、引き受けることである。

欲望も、不安も、身体も、心も。

彼女が私に委ねようとするものを受け止め、その時々の彼女を見ながら、導いていく。

だから、支配には責任が伴う。

自分の感情をぶつけることと、支配することは違う。

愛玩が従うからといって、何をしてもいいわけではない。

むしろ、委ねられるものが大きくなるほど、主には節度と判断が求められる。

旧ブログを書いていた頃から、私は愛玩を「置物」だとは考えていなかった。

愛玩は感じる。
考える。
迷う。
変わっていく。

そして私に応えながら、時には私自身をも変えていく。

だからこそ、私たちの主従は一方通行ではない。

私は愛玩を導き、
愛玩は私に委ねる。

その繰り返しの中で、二人の性愛もまた深くなっていった。

長い年月を経て

長い年月を経た今でも、私は愛玩の主である。

けれど、出逢った頃の私と今の私は、同じではない。

愛玩を導きながら、私もまた愛玩によって「主」として育てられてきたのだと思う。

支配する悦びを知った。

委ねられることの重さを知った。

一人の女性の身体と心を預かることが、どれほど深い信頼の上に成り立つものなのかも知った。

主がいて愛玩が生まれたのではない。

愛玩が私を主として受け入れたからこそ、
私は彼女の主になることができた。

だから、この関係は二人でつくってきたものなのだと思う。

私は、愛玩の主である。

かつては、その言葉が意味するものを、今ほど深くは知らなかった。

長い年月を重ねた今、その言葉には、支配だけではなく、責任も、信頼も、慈しみも、そして二人で重ねてきた時間も含まれている。

愛玩と出逢えて、よかった。

そしてこれからも――

私は、愛玩の主でありたい。

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