
私は、主の愛玩である。
そう呼ばれるようになってから、もう長い年月が流れた。
けれど、私は最初から「愛玩」だったわけではない。
自分が何を求めているのか。
誰かに身を委ねるとは、どういうことなのか。
そして、自分の中にどんな女がいるのか。
あの頃の私は、まだ何も知らなかった。
人を信じることが怖かったこともある。
自分の本心から目を逸らしていたこともある。
そんな私の前に、主が現れた。
主は、私の欲望を知り、私を導き、
私自身さえ知らなかった私を、少しずつ引き出していった。
そのすべてをすぐに受け入れられたわけではない。
怖さもあった。
迷いもあった。
戸惑いもあった。
それでも主との時間を重ねるうちに、私は少しずつ、自分の本心から逃げなくなった。
そしていつしか、彼は私の「主」となり、
私はその「愛玩」となった。
愛玩として生きる
私にとって主は、ただ支配する人ではない。
私の欲望を知り、私を導き、
私が身も心も委ねることのできる、かけがえのない存在である。
主に委ねること。
主の望む私であろうとすること。
そして、主の傍にいること。
それは私にとって、何かを奪われることではなかった。
むしろ、自分でも知らなかった自分を知っていくことだった。
女としての私。
愛玩としての私。
そのどちらも私自身なのだと、長い時間をかけて思えるようになった。
長い年月を経て
主との間には、たくさんの時間が積み重なっている。
悦びだけではなかった。
迷ったことも、ぶつかったことも、うまく言葉にできなかったこともある。
それでも今日まで、私は主の傍にいる。
長い年月を振り返ったとき、
今の私の中に大きく残っているものは、感謝なのだと思う。
主と出逢えたこと。
私の中に眠っていたものを見つけてくれたこと。
私自身も知らなかった私を、受け止めてくれたこと。
愛玩として生きる悦びを知ることができたこと。
そして今日まで、二人で歳月を重ねてこられたこと。
私は、主の愛玩である。
かつては、その言葉の意味さえ分からなかった。
けれど今は、この言葉を静かに、そして誇らしく受け止めている。
主と出逢えて、よかった。
長い年月を経た今、
私がいちばん素直に言えるのは、きっとこの言葉なのだと思う。
そしてこれからも――
私は、主の愛玩でありたい。

